片倉勇輝の熱い冬

神無月ふみ


 小さな電子音に、片倉勇輝は、うんざりしながら脇に手を入れた。
 一五秒で計測できるという電子体温計を取り出し、表示されている数字を見て、ため息をつく。
 三九度五分。
 ――人間の体温じゃない。
 勇輝は憂鬱な気持ちで、電子体温計のスイッチを切った。
 自室のベッドに横たわり、勇輝は目を閉じる。
 熱っぽいと思った時点で、すぐに医者に行ったのだ。
 四八時間以内に飲めば、絶大な効果を発揮し、熱もほとんど出ないという薬を貰って服用したが、二日経ったいまも、全く治る気配がない。
 勇輝は激しく咳をする。
「タミフル、全然効かねえじゃないか」
 タミフルに対して耐性のついた、インフルエンザウイルスがいると聞くが、勇輝のかかったインフルエンザは、どうやらそれだったらしい。
 高熱が出て以来、水道水しか飲んでいない。
 元々、自炊をする人間ではなかったし、いま食べ物を買いに行く元気もなかった。食欲も全く湧かない。
 このまま熱で死ぬか、それとも飢えて死ぬか。
 どのみち死ぬことになりそうだと、考えてしまう。
 おそらく腐臭が漂うまで、誰も勇輝が死んだことに気づかないだろう。第一発見者は、しばらく食事ができないかもしれない。
 嫌な未来を想像しているうちに、勇輝は、ますます憂鬱になってきた。
 ――俺、いままで体調が悪くなったとき、どうしていたっけ。
 いまの自分にできることはないかと、記憶をさかのぼって考えるが、何も思いつかない。
 子供のころ、確かに風邪を引いたこともあった。
 しかし少しでも体調が悪くなると、研究所の連中が、よってたかって治したのだ。病気が悪化して、ひどい状態になった記憶は全くない。
 嫌な思い出しかない研究所だったが、医療面は充実していた。いままで自分は、ある意味甘やかされていたんだなと、勇輝は苦い気持ちで考える。
 ――やっぱり一ヶ月後に、腐乱死体かミイラで発見されるのかな。
 真冬の場合、死体が腐るのと乾涸らびるのとでは、どちらが早いだろう。
 暗い気分で考えているとき、玄関チャイムが鳴った。
「こんなときに……」
 勇輝は頭から、寝具をかぶった。
 続けて二回、チャイムが鳴る。
「誰だ」
 勇輝はブレスレットを外した。
 訪問販売なら、相手の思考ブロックをいじって、さっさと帰らせようと思った。
 だがドアの向こうにいる人間が、誰であるか知り、勇輝は飛び起きる。
 人間とは思えないような、シンプルなブロックの持ち主である。こんな人間など、勇輝の知っているかぎりでは、一人しかいない。
「なんで、あいつがこんなところに来ているんだ……!」
 勇輝は高熱でふらつきながら、玄関のドアを開ける。
「東堂麻衣子、参上!」
 そこには、元気いっぱいの麻衣子が立っていた。
 ぱっちりとした目と、真っ直ぐで美しい黒髪を持つ、美女である。ただし勇輝にとっては、麻衣子の美貌よりも、常人の倍はある、はた迷惑な行動力のほうが印象深かった。
 麻衣子は満面の笑みを浮かべ、右手を上げて、ひらひらさせている。
 勇輝は頭痛がひどくなったような気がした。
 無駄に明るい麻衣子を見なかったことにしたくなり、そっとドアを閉めようとする。
「こら、閉めるな」
 隙間に身体をねじ込むようにして、麻衣子が中に入り込む。
「せっかく来たのに、いきなりひどいじゃないか。あやうくドアとサンドウィッチになるところだったぞ」
 麻衣子の抗議に、勇輝は疲労のあまり体温が、さらに五分ほど上昇したような気がした。
「俺はいま、最悪の体調なんだ。あんたの高いテンションに付き合えるような気力はない」
「知っている。インフルエンザだって、お前の職場の人に聞いた。だから看病に来たんだ。――心配したぞ。メールを入れても返事はないし、ケータイにかけても全然出ない。思い切って職場に電話してみてよかった。見るからに、ひどい状態じゃないか」
「そのひどいインフルエンザが、俺と一緒にいると、あんたにもうつるぞ。だから帰れ」
 朦朧としながら追い出そうとするが、麻衣子は得意げに胸を張る。
「心配しなくてもいい。私は去年かかったから、今年はかからないんだ。今年は身体に抗体があるらしい。ま、予防接種をしたようなものだな」
「あんたのかかったインフルエンザと、型が違っていたら、関係ないと思うんだが」
「いやいや、きっと同じだ。私も熱が高かったんだから。とにかく、あとのことは私に任せて、お前は寝るんだ」
 無理矢理ベッドに引っ張って行かれ、押し倒されるように、寝かされる。
 ――動けないほど弱っていなければ、逆襲してやるのに。
 熱のせいで、くだらない妄想をしそうになったことに気づき、勇輝は自分の額を二度叩いた。
 その手に重ね合わせるように、麻衣子が触れてくる。
 そのまま麻衣子は右手で勇輝の手を握り、左手で勇輝の頬に触れた。
「熱が高いな。何度だった?」
 やわらかい手に、どきりとする。
「――三九度五分」
 たったいま、もう少し上がったかもしれないけれど、と心の中でつけ加えながら、勇輝は答えた。
 麻衣子は目を丸くする。
「大変じゃないか。私がかかったときより、五分も高い。薬は……熱冷ましは、貰ったか?」
「タミフル飲んだら大丈夫と言われて、貰えなかった。それにインフルエンザのとき、解熱剤はあんまり飲まないほうがいいんじゃなかったっけ?」
「子供ならともかく、大人なら無茶な使い方をしなければ大丈夫なはずだ。さすがに四○度近くも熱が出ていたら、解熱剤も飲んだほうがいい」
「心配しなくても、大丈夫だって。医者だって、そう言っていた」
 半ば自棄気味に勇輝が言うと、麻衣子は憤慨したように両手を腰にあて、ベッドサイドで仁王立ちになる。
「大丈夫なものか。現に熱が上がりまくっているじゃないか。勇輝、別の病院へ行ってきたほうがいい」
「……もう少し良くなったら、行く」
「それじゃあ、意味がない。いますぐ行くんだ」
 言いながら、麻衣子は勇輝の部屋を、漁り始めた。
「バカ、やめろ。勝手に触るな」
「着替えを探しているだけだ。これから外に行くんだから、暖かくしておかなければ」
「自分で探すから、じっとしていてくれ。頼むから」
 勇輝は高熱で、ふらふらしながら麻衣子を座らせ、クローゼットを開く。
 麻衣子は物珍しそうに、勇輝の部屋を見渡した。
 部屋の中には、テレビとHDD・DVDレコーダー、そしてパソコンぐらいしか、電化製品はない。他の家具といっても、安物のテーブルと、組み立て式のクローゼットと衣装ケースだけだ。
 一生懸命見るほどの物は何もないが、麻衣子は何故か楽しそうだ。
「初めて勇輝の部屋に来たけれど、案外綺麗だなあ。兄貴の部屋より物が少ないせいか、整理されている。いい部屋じゃないか」
「引っ越しが多いから、あんまり物を増やしたくないんだ。どこへ引っ越しても、六畳一間ぐらいのところに住むから、物が多いと部屋に入らなくて困るし」
「しかし炊飯器がないのは、問題だな。電子レンジは、あるくせに」
 勇輝は、のろのろと服を着替えながら言う。
「アメリカ人の家庭にだって、電子レンジがあって炊飯器はない。しかしアメリカ人は困っていないようだが」
「高熱が出ているくせに、口は達者だな。……まあいい、炊飯器は今度持ってこよう」
「そんな物があっても、俺は使わないぞ」
「じゃあ、私がときどき使いに来る」
 麻衣子は平然と言った。
「私は料理を作るのも食べるのも、大好きだ。勇輝さえよければ、仕事が暇なときにでも作りに来よう。どうせ普段から、いい物を食べていないだろう? 私も大した物は作れないが、外食を続けるより、いいんじゃないかな」
 普通の男なら、綺麗な女がにこにこ笑いながら、料理を作りに来ると言われると、多少期待してしまうものだ。
 しかし楽しい想像をするには、勇輝は麻衣子との付き合いは長すぎた。
 麻衣子は胸を張る。
「困ったときはお互い様だ。それが友達ってものだろう?」
「友達……ねえ」
 引っかかりを感じながら言うと、麻衣子は満面の笑みを浮かべた。
「ここでの経験は、いつの日か私に彼氏ができたときに、役に立つはずだ。……こう言うと、お前を実験台にしているみたいで申し訳ないが、とにかく遠慮するなと言いたいんだ」
 勇輝は、がっくりする。
 麻衣子の言動は、いつだって紛らわしい。旅の最中も、そうだった。
 少し仲良くなった人間相手には、誰にでも親切だ。しかも過剰に。
 誤解した男も、たくさんいただろうと思うと、勇輝は不愉快だった。
 ただ、麻衣子はいままで、恋人ができたことがないらしい。最初その事実を知ったときは驚いたが、一緒に旅を続けている間に、理由が想像できた。
 おそらく麻衣子が知らない間に、恋愛のチャンスを全部自分で潰していたのだろう。もしくは麻衣子の恋愛を妨害する何かがあるか、どちらかだ。
「気をつけて行ってこいよー!」
 着替え終わった勇輝を、麻衣子は心配そうに送り出した。
 マンションから徒歩で五分のところに、内科が専門の小さな医院がある。前回は救急病院へ駆け込んだが、今回はそこへ行くことにした。
 一緒について来たがる麻衣子を、医院は近いからと無理矢理置き去りにしてきたが、勇輝は歩きながら後悔する。
 ――このまま、行き倒れになるかも。
 健康体のときは、ほんの少しの距離に思えた場所も、遙か彼方に思える。医院の看板も見えているのだが、歩いても歩いても、逃げてゆくように感じられた。
 倒れたときのために、誰かに居てほしくなったが、自分から麻衣子を置いてきたのだから、どうしようもない。
 やっとの思いで、勇輝は医院へ辿り着いた。
 扉を開けた瞬間、熱がさらに上がったような気がしてくる。
 待合室に人が溢れていたのだ。
 誰も彼もがマスクをしており、充血した目だけを出していた。患者たちは、背を丸めて椅子に座り、時折激しく咳をしている。
 間違いなく、インフルエンザウイルスの密度が高いところだろう。どんな健康体の人間でも、ここに一時間居れば、インフルエンザにかかりそうである。
 勇輝は保険証を出し、問診票に記入したあと、患者の一団に仲間入りした。
 もう一度体温を測ると、熱は三九度八分まで上がっていた。体温計に表示されている数字を見ただけで、もっと熱が上がったような気がしてくる。
 永遠とも思える待ち時間を過ごしたあと、診察室に入った。
 症状を説明すると、即座にインフルエンザと診断され、簡単な診療のあと処方箋を受け取る。
 薬局で処方箋を薬に替えたあと、勇輝は足を引きずるようにして部屋へ戻った。
「よかった、無事帰ってきたんだな。ベランダからずっと見ていたんだぞ」
 心から安堵したような麻衣子が、戸口で待ちかまえていた。
「ここの鍵を持っていたら、探しに出られたんだけれど。鍵もかけずに、部屋を空にするわけにはいかないからなあ。……ちゃんと薬を貰ってきたか?」
 声を出すのも面倒なので、勇輝は薬袋を麻衣子の目の前で振った。
 麻衣子は満足そうに頷く。
「とりあえず食事にしよう。用意しておいたんだ」
「いらない。薬飲んで、寝る」
 グラスに水道水を入れるが、麻衣子に薬を取り上げられる。
「いますぐ薬を飲むのは、やばいぞ。何か口の中に入れてからにしろ」
「食欲が湧かない」
「それでも食うんだ。胃が空のまま解熱薬を飲んだら、今度は胃がやられるぞ。それでもいいのか?」
 確かに病気が二つに増えるのは、嬉しくない。
 理性では分かっているが、考えるのが面倒になっている勇輝は、朦朧としながら言う。
「別に、いい」
「よくない!」
 麻衣子は真剣な顔で言う。
「とにかくせっかく作ったのだから、食べるんだ。粥だから、いざとなったら流し込むように食える」
 この部屋には、米などなかったはずである。
 コンロを見ると、粥の入った鍋がかかっている。どうやら麻衣子は米を持参していたらしい。
 さすがに「いらない」と言えなくなった。
 勇輝は着替えさせられ、ベッドに座らされた。
 麻衣子は粥の入った器を持ってくる。勇輝は中を覗きこんだ。
 どこから見ても、ただの真っ白な粥である。具もなく、味がついているようにも見えない。
「塩、ないかな?」
「高熱が出ているときに、味つきの物を食っても、まずいだけだ。経験した私が言うのだから、間違いない。私が去年熱を出したとき、一番うまかったのは、この味なしの粥だった。騙されたと思って、食べてみろ」
 以前食ったときの、まずくもなければうまくもない粥の味を思い出し、ためらっていると、麻衣子が勇輝の顔を上目遣いで見る。
「食べさせてほしいのか?」
 黒目がちの瞳を見ていると、落ち着かない気分になり、勇輝は目をそらす。
「……自分で食う」
 思い切って食ってみると、意外に甘くて、うまい。水分が喉を通り抜けてゆくとき、喉の痛みも和らいでゆく。気がついたら、夢中になって食っていた。
 健康体のときは、気の抜けた食い物だと思っていただけに、自分の味覚の違いに驚かずにいられない。
 その間麻衣子は、ベッドサイドにテーブルを寄せてきた。
 テーブルの上に、アイソトニック飲料の入った、一・五リットルのペットボトルを三本並べ、グラスと薬を横に置く。
「もう薬を飲んでもいいぞ」
 勇輝が食べ終わると、麻衣子は食器を下げる。
「いまから三○分後から薬が効き始める。一時間もすれば、熱が下がるはずだ。汗が大量に出るはずだから、自分がタマネギになったつもりになって、服をどんどん着替えてくれ」
 麻衣子は自分の腕時計を見る。仕事でも使っているらしい、男物のデジタル時計だ。
「六時間後に薬の効き目が切れて、熱が上がり始める。寒気がして目が覚めるだろうから、すぐに分かるはずだ。そうなったら残った粥をレンジで温めて、食うんだ。そして食ったあとは、薬が効くのを待って、汗かいて熱が下がったら、また着替えること。とにかくそれを繰り返せば、いずれ治る」
 勇輝は薬を飲み込んだあと、ぼやく。
「治る前に、着替える服がなくなると思うのだが」
「心配するな。私が仕事帰りに洗濯物を取りに来る。私の家で洗濯したら、また持ってくるから、乾いた順に着て行けばいい。――そうだ、合い鍵をくれ。ここに来ても、お前を起こさないようにしたいから」
 麻衣子は、にっこり微笑んで右手を出した。
「合い鍵をくれ」という言葉だけを聞くと、色っぽいシチュエーションを想像したくなる。
 しかし相手は麻衣子だ。単なる親切心で言っているだけだろう。
 勇輝は鍵を渡しながら、それでも一応訊いてみる。
「どうしてこんなに親切なんだ」
「お前の世話を焼くのは、けっこう楽しいからだ」
 麻衣子は嬉しげに言う。
「お前は普段、私を間抜け扱いするだろう? 立場が逆転するのは、気分いいぞ」
「……そうかよ」
 ただの親切心からだと言われるより、微妙に悪い。勇輝は、変な期待をしなくて本当によかったと、心から思った。
「さあ、そろそろ寝るんだ。三○分後に一気に熱が下がるから、早く横になったほうがいい」
 麻衣子に押し倒されるように寝かされ、勇輝は布団をかぶった。
「私のいない間、食べ物に困るだろうから、レトルトの粥も置いてゆく。中身を容器に移して、レンジで温めること。もう少し食べる元気が出たら、温泉卵も買っておいたので、それでも食べるといい。ただし、どちらも味をつけるなよ」
「……分かった」
 どうにか勇輝が返事をすると、麻衣子は目を細めて笑った。
「明日も来るからな。空腹の状態で、薬を飲むなよ。汗かいたら、ちゃんと着替えるんだぞ」
 猛烈な勢いで食器を洗ったかと思うと、麻衣子は嵐のように去って行った。
「あの、おせっかい」
 呟いたものの、本当はありがたかった。
 死ぬんじゃないかと思っていた二時間前とは、状況が全く違う。少なくとも死体になることだけは、免れそうだ。
 身体中から汗が噴き出し始めた。時計を見ると、麻衣子の言ったとおり、薬を飲んでから三○分経っている。
 呼吸するのも苦しかったはずだったが、いつの間にか動けそうなほど楽になっている。
 二時間後に着替え、熱を測ってみると、三七度台まで下がっていた。
 勇輝は安堵したあと、気づく。
 ――俺、まだ礼を言っていなかった。
 後悔するが、今後チャンスがないわけではない。
 麻衣子が毎日来ると言ったのだ。麻衣子自身の都合がつけば、本当に毎日来るだろう。
 二、三日でインフルエンザが治るはずはない。顔を合わせたときに、礼を言えばいい。
 勇輝は自分を納得させると、深い眠りについた。


 麻衣子は毎日やって来た。
 しかし礼を言う機会を失ったままだった。
 麻衣子は、勇輝が寝ている間に来ることが多かったし、起きている間に来ても、話しかけようとすると、すぐに「寝ていろ」「安静にしていろ」と言われ続けていたのだ。タイミングを計るのが難しかった。
 それに話をしたせいで、麻衣子にインフルエンザを移してしまうのも困る。
 考えたあと、勇輝は布団の中で暗い気持ちになる。
 ――そんなこと、ただの言い訳だ。
 最初に礼を言うべきだったのに、言いそびれてしまった。
 以後、急に礼を言うのは変だろうかだの、ありがとうと言うだけでは、感謝の気持ちを表しきれていないのではと考えているうちに、今日まできてしまったのだ。
 元々、家庭的な優しさを受けたことがなかったので、調子が狂う。こういうときどうすればいいのか、誰かに教えてもらったこともない。
 勇輝にとって、全くの未知の経験だった。
「だからといって、このままじゃいけないよな」
 いつの間にか部屋の中にあった炊飯器を見ながら、勇輝は決意した。
 すでに、ほぼ平熱になっている。
 ほとんど治った今日こそ、麻衣子に、きちんと礼を言おう。
 だが麻衣子は夜になっても来なかった。
 仕事が忙しいのだろうか、それともまさかインフルエンザにかかってしまったのだろうかと、心配になってくる。
 かといって、今日は来ないのかとメールを打つのも、催促しているようで送りづらい。
 ――明日来なかったら、連絡を入れよう。
 勇輝は改めて決意し、眠りについた。


 朝、目覚めると、テーブルの上に銀色に光る物が見えた。
 目を擦ったあと身体を起こすと、光る物の正体が鍵であることが分かる。
 いつの間にか戦車のキーホルダーがついていたが、紛れもなく麻衣子に渡した、部屋の合い鍵である。
 勇輝は慌てて鍵を掴んだ。
 金属の、ひんやりとした感触が伝わってくる。テーブルに置かれてから、長時間経っているようだ。
「……夜中に来たのか」
 がっかりせずには、いられなかった。
 メモ一つないところを見ると、麻衣子は何も書けないほど真っ暗な中で、洗濯物を置いて行ったようだ。勇輝の様子から、もう看病の必要がないと判断し、鍵を返したに違いない。
 礼を言う計画は失敗である。
 アクセサリーを外して寝ていれば、絶対に気づいたのにと後悔するが、もう遅い。
 勇輝は、乾いて綺麗にたたまれた洗濯物を見ながら、呟く。
「もう来ないのかな」
 口に出したとたん、自分の顔が赤くなるのが分かった。
 また熱が上がってきたかもしれない。完全に治っていなかったようだ。
 勇輝は布団をかぶった。
 すべては完治してからだと、自分に言い訳しながら。


 出勤できるようになったのは、麻衣子が合い鍵を置いて行った日の翌日だった。
 倉庫に並んだ品物を検品していると、勇輝よりも三歳年下の同僚である、新見翔太が話しかけてくる。
「インフルエンザ、治ったんスね」
「ああ」
 無愛想に返事したつもりはないが、自然とぶっきらぼうな口調になる。
 勇輝の個人事情を、あれこれ訊きたがる翔太と話をするのは、苦手だった。いままでの職場でも、仕事に必要なこと以外、会話をした経験がないので、馴れ馴れしく話しかけられると落ち着かない。
 だが勇輝の心などお構いなしに、翔太は楽しげに言う。
「片倉さんの彼女から電話がかかってきたとき、取ったの俺なんですけどね、彼女、片倉さんが熱出したと聞いたとき……」
「俺の彼女じゃない」
 勇輝は憮然として訂正した。翔太は大げさに驚く。
「まじッスか? 俺、家を教えちゃったけれど、まずかったですか? 綺麗な声の女性が丁寧に訊いてきたから、ストーカーじゃないとは思ったんですけど」
 ――お前が麻衣子に教えたのか。
 勇輝は翔太に感謝をすべきか怒るべきか迷い、黙りこんだ。
 返事をしない勇輝の顔を、翔太は、にやにやしながら覗いてくる。
「で、彼女とうまくいったんですか?」
「別に」
「まーたまた、とぼけちゃって。一人暮らしの男の部屋に女が来て、何もなかったはずが、ないでしょ?」
「俺は熱が出ていたんだよ。ろくに動くことさえ、できなかったんだぞ。なんだったら、お前にもインフルエンザを移してやろうか?」
 勇輝が咳をしようとすると、翔太は慌てて飛びのいた。
「それだけは勘弁してくださいよー」
 翔太は悪びれることなく言う。
「でも俺が彼女に家を教えたおかげで、片倉さんはチョコレートを貰えたわけでしょ? もっと感謝してくださいよ」
「チョコレートなんか、貰っていない」
 粥は貰ったけれど、と心の中でつけ加える。
「そんなはずはないでしょ? こればっかりは、俺も片倉さんの言葉を信用しませんよ」
 気持ちよく笑う翔太を、勇輝は横目で睨む。
「何で唐突に、俺が菓子を貰わなければならないんだ。ハロウィーンもクリスマスも、とっくに終わっただろう? 子供じゃあるまいし、そんなものを貰う理由がない」
「あの……マジで言っているんですか?」
 勇輝の言葉に衝撃を受けたらしく、翔太は、しばらく絶句した。
 やがて訝しげな顔で、勇輝に訊いてくる。
「あの日、バレンタインデーだったじゃないですか。だから彼女、片倉さんに会おうとしたのだと思うんですよ。――なのにチョコレート、貰えなかったんですか?」
「バレンタインデーだって?」
 勇輝は慌てて頭の中でカレンダーを思い浮かべた。
 麻衣子が部屋に押しかけてきたのは、ちょうど一週間前である。
 確かにバレンタインデーだった。
 日本ではバレンタインデーに、女から好きな男へチョコレートを贈る習慣があることを、勇輝は普段なら覚えていた。スーパーで働いていたころ、チョコレートの山を、楽しくディスプレイしたこともあった。
 しかし高熱にうなされている間は、完全に忘れていたのだ。いままでチョコレートを貰ったこともないので、贈られる立場から、バレンタインデーという行事について考えたこともない。
 ――もしかしたらチョコレートを、くれるつもりだったのだろうか。
 麻衣子の様子を思い出したあと、勇輝は心の中で首を横に振る。
 残念ながら哀しいほど、麻衣子はそんなそぶりを見せなかった。翔太の考えすぎである。
 翔太は興味津々で言う。
「片倉さんって、見かけは派手だけれど、性格は地味っていうか、ボンヤリしていますよね。いくら熱が出ていても、バレンタインデーぐらい覚えているんじゃないですか?」
「行事に縁遠い生活をしているんだよ、俺は」
 勇輝は自棄気味に言う。
「もし俺にチョコレートを渡すつもりだったとしても、どうせ義理チョコだ」
「そうでしょうかねえ? 片倉さんがインフルエンザだって聞いたとき、けっこう狼狽していましたよ」
「誰にでも親切なんだよ。俺だけ特別なわけじゃない」
「そんなものですかね」
 翔太は首をかしげるが、急に、またにやにやし始める。
「本当に綺麗な声だったなあ。喋り方が、ちょっと変なところも、面白くてかわいいし。片倉さんの彼女じゃないのなら、紹介してくださいよ」
「駄目だ」
 即答する勇輝を見て、翔太の目が輝いた。
「もしかして、片倉さんって片思いなんですか? うわー、全然似合わねえ……いや、あまりにも、らしすぎるっていうか……」
「凶暴で怖い女だから、やめておけと言いたいだけだ! あんな、食い意地が張って、おせっかいな女……」
「俺、凶暴で怖い女も、嫌いじゃないですよ。食い意地が張って、おせっかいだなんて、かわいいじゃないですか。俺、マジで告ろうかな……」
 軽い口調で言うので思わず睨むと、翔太は逃げて行った。
 一人残された勇輝は、一大決心をした。
 ――メールを打とう。
 麻衣子を食事に誘えばいい。いつも麻衣子から誘ってきていたが、今度は自分から誘えばいいのだ。お礼をするという立派な理由があるのだから。
 そして折を見て、バレンタインデーのことを、訊いてみよう。
 訊いてどうなるわけでもないだろうが、少しはすっきりするかもしれない。
 ――別に、チョコレートが欲しいとか、そういうんじゃないからな。新見翔太がよけいなことを言うから、気になるだけだ。
 勇輝は慣れない手つきで、メールを打ち始めた。


 食事をおごる日を、ホワイトデーにしてみた。
 しかし麻衣子の指定してきたところが、串カツ料理屋だったせいか、バレンタインデーのことについて、訊く雰囲気にならなかった。
 それどころか、今日がホワイトデーであることにさえ、麻衣子は気づいていないようである。
 勇輝のおごりで力一杯食べ続ける麻衣子は、本当に幸せそうだった。
 礼ができてよかったと、勇輝は心から思う。
 しかし麻衣子の意向を無視してでも、雰囲気を重視して、フランス料理にすべきだったかもしれないと、ほんの少し後悔した。



     終わり



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