ダブル・トラップ 〜TRAP HAS TWO FACES〜

神無月ふみ


       1

 あっ、と叫びそうになった。
 突然冬がやってきたかのように、寒気すらする。
 だが過去の訓練のたまもので、どうにか無表情を取り繕うことができる。
 内心の衝撃を、どうにか表に出さないようにして、呉林文鎮(くればやしぶんちん)は問題の彼に近づいた。
「冨永亮司(とみながりょうじ)先生――ですか?」
 赤銅色の髪を持つ男は、読んでいた本から目を離し、ずり落ちかけたメガネをかけ直した。
「ええと、そうだけれど。……あれ、きみ、どこかで見たことあるなあ」
「これまでに、どこかでお会いしたことあるかもしれませんね。――俺も貴方を知っていますよ」
 亮司は、不思議そうに首をかしげた。
 知らないのか、覚えていないのか、それとも知っていて、とぼけているのか。
 呉林は動揺を隠して、どうにか口元を笑みの形に曲げた。
 つられるように、亮司も微笑む。暗さなど微塵も見えない、柔らかい笑顔だ。
 ここは城之内ゼミナールという、進学塾の講師室である。
 塾の講師が和やかに談笑しているところで、呉林は、ここにいるはずのない人間と出会った。
 冨永亮司――そう名乗っている男は、英語の教師だという。
 だが実際は違う。
 本名、ニコライ・セルゲイヴィッチ・イワノーフ。
 かつて、KGBのエージェントだった男だ。


 五年前。
 呉林はスティーヴ・グラントという名前で、CIAに所属していた。
 当時アメリカは、軍事独裁国家であるチャリナンの内戦に対して介入工作をしていた。
 反米政策を取っていた当時のチャリナン政府は、アメリカにとっても目障りだったのだ。
 そこへ反政府側が、親米政策を取ると言ってきたので、アメリカは支援の約束したのである。
 呉林――スティーヴもチャリナンに向かい、他のエージェントたちと工作活動をした。
 だが、結局クーデターは失敗に終わった。
 旧ソヴィエト連邦からチャリナンに亡命してきた、共産党員や元KGBエージェントが、チャリナン政府側に味方したからである。
 彼らは敵ながら、腹が立つほど優秀な者が多かった。
 その中で最も優秀だったのが、ニコライ(コーリャ)・セルゲイヴィッチ・イワノーフ。
『コーリャの罠』と呼ばれる独特のトラップで、アメリカ側は何度も翻弄されたものだ。
 ――だが。
 呉林は自席に着き、苦い思いのまま横目で亮司を見る。
 コーリャはあのとき、チャリナンで死んだはずなのだ……。
「ブンチンくーん、眉間にしわなんか寄せて、腹でも痛いのかなー?」
 人を小馬鹿にしたような声がし、呉林は声の主のほうを振り返った。
 同僚である轟華之介(とどろきはなのすけ)が、にやにやしながらコーヒーを差し出してくる。
「別に腹が痛いわけじゃない」
 呉林は不機嫌そうな顔で、コーヒーを受け取った。
「で、ブンちゃんは何でそんな不機嫌な顔をしていたのかな?」
 華之介は呉林のことを、『ブンチン』もしくはそれに類する言葉で呼ぶ。
 最初は気に入らなかったが、あまりにも何度も呼ばれたので、華之介から言われるのは気にならなくなった。
 もっとも生徒から『ブンチン先生』と呼ばれるのは、相変わらず気に入らないが。
 呉林はちらりと亮司に目をやった。亮司は、呉林のことなど完全に忘れきったかのように、読書を再開している。
「彼は――何者だ?」
 華之介は呉林の視線の先を見て、あっさり言う。
「あれ、知らないの? まあ俺も知っているってほどじゃないけど。確か昨日まで、第三講師室の住人だった英語の講師だよ。今日からこっちの部屋の住人になったのかな。どこかの国の血が混じっていると聞いたような気がする。ドイツだったかなあ」
「――ロシアだ」
「へえ、そうなんだ」
 表情が曇ったままの呉林を見て、華之介は意地悪く笑う。
「ロシア人を見て不機嫌になるなんて、ブンちゃんってば、昔の職業を引きずりすぎ。ヤなことは、ぱーっと忘れなきゃ。もちろん過去の遺恨も忘れてさぁ」
「ただのロシア人じゃない。俺の予想では――いや間違いなく、あれはコーリャだ。ずっと死んだと思っていたが、生きていたんだ」
「コーリャ? 何、それ」
 呉林はコーリャが、かつてKGBのエージェントであったことを告げた。
 華之介は小さく肩を竦める。
「どこかの国のエージェントだなんて、よくある話じゃないか。この城之内ゼミナールでは。――ここが普通の塾じゃないことは、ブンちゃんも知っているだろ?」
 もちろん知っている。だから呉林は、ここに就職したのだ。
 城之内ゼミナールは、通称『嘱託』と呼ばれる秘密組織である。
 塾長である城之内彪馬(ひょうま)が、特殊公安庁から依頼を受けて、講師という名のエージェントと共に、超法規手段を用いて国内の治安維持に努める。それが『嘱託』だ。
 ゆえに城之内ゼミナールには、普通の講師に混じって、嘱託として極秘ミッションを遂行できる、特殊技能保持者が幾人もいる。呉林もそのうちの一人だ。
 CIAを辞めたというのに、まだ諜報の世界から足が洗えないのは何故だろうと、呉林はときおり自問する。
 だが答えはまだ出せないままだ。
「城之内ゼミナールには、ブンちゃんみたいな元CIAがいてもいいように、元KGBがいてもいいんだよ。――どうせソ連なんかもうないわけだしさあ。いいじゃん、誰がいたって」
「コーリャは、ただのKGBのエージェントじゃない。実働部隊だ。彼のトラップにかかって、何人も同僚が翻弄された。死んだ者だっている」
「まあ、罠に掛かって死ぬ奴ぐらい、いるさ。戦争していりゃな」
「お前は知らないから、平然としていられるんだ。いいか、奴は普通じゃない。あんな悪魔みたいな罠を作れる人間が、この世に存在するとは思えないと言いたくなるほどの腕だぞ」
 華之介は首をかしげた。
「だったら冨永氏と、ブンちゃんの言う『コーリャ』とは別人じゃないかな。確かに冨永氏はトラップを作るけれど、腕はいいが普通だぜ。あのぐらいなら、SASやSEALにもいる。俺だって、彼が作るぐらいの罠なら、ちょっとがんばれば作れるかもしれない」
 呉林は苦い表情のまま、首を横に振る。
「あんなのが、作れるわけがない」
「だから冨永氏ぐらいなら、できるんだってば。そもそも冨永氏は、罠作りが専門じゃないしな」
「――専門じゃない?」
「そうだよ。狙撃ができるほど精密ではないが、一応銃は撃てる。多少医療の知識もあるから、衛生兵のまねごとだってできる。いろんなことがそれなりにできるので、重宝しているから、嘱託にいるのさ。別に罠の腕だけを買われたわけじゃない」
 呉林は、かつてのコーリャを思い出し、再度首を横に振った。
「……罠が専門じゃないコーリャなんて、想像もつかない」
「だから別人さ。――さっき、ブンちゃんは『コーリャは死んだ』って言っていただろ? 冨永氏は冨永氏以外の何者でもない。本物のコーリャは死んだんだよ」
 呉林と話をするのが飽きたのか、華之介は講師室から出ていった。
 華之介の言うことは、理にかなっているが、どうしても納得できなかった。
 呉林は、もう一度亮司を観察した。
 小柄でメガネを掛けていて、お人好しを絵に描いたような雰囲気の持ち主である。
 呉林もメガネを掛けているが、呉林の場合は顔を冷たく見せているのに対し、亮司のメガネは茫洋とした空気を演出しているように思える。
 おまけに何歳なのか見当がつかない童顔で、呉林よりも生徒のほうに年が近いように見える。
 しかしその顔立ちは、コーリャにそっくりなのだ。
 呉林は顔を歪める。
 どう見ても亮司とコーリャが、赤の他人には思えなかった。
 だが、かつて声を聞いたときに感じた、異様な雰囲気もない。
 そう。
 この世のものすべてを玩ぶような残酷な無邪気さと、それでいて何もかもに飽き飽きしている倦怠感がないのだ。
 ――やはり別人なのだろうか。
 呉林はノートパソコンを起動させ、今回のミッションについて書かれたファイルを呼び出した。
 今回のミッションは、あるロシア人の護衛である。
 元KGBの大佐で、かつてチャリナンに居て、チャリナン・ロシア間の密輸で荒稼ぎをしていた男だ。
 そしてチャリナンとロシアの閣僚を、何人も失脚させるだけの秘密を持って、日本に逃げてきたらしい。
 特殊公安庁としては、この男を捕らえて情報を取りたい。
 だが下手な方法で捕えると、チャリナンからもロシアからも、身柄を引き渡せと言ってくるだろう。
 身柄を拘束するための、うまい理由がなくて、やきもきしている間に、チャリナンから殺し屋が入国したという情報が、特殊公安庁に入ってきた。
 困った特殊公安庁は、男を捕らえる方法が見つかるまで、秘密裏に護衛せよと嘱託に言ってきたのだ。
 もちろん呉林は、その元大佐を知っていた。相手もおそらく、呉林の顔を知っているだろう。
 だが顔を知られていることのデメリットよりも、相手の手の内を知っているメリットのほうが上回ったので、このミッションを任されたらしい。
 亮司にこのミッションが任されたのも、同じ理由だと思われる。
 しかし元大佐と亮司が知り合いであることと、コーリャと亮司が同一人物であるか否かは、別問題だ。
 考えたところで、亮司がコーリャなのか判然としない。
 呉林が頭を掻きむしっていると、華之介が再び近くにやって来た。
「悩めるブンチンくんに、いいものをあげよう」
 華之介は呉林のデスクに一枚の紙を置いた。
 乱雑に散らかっているものに紛れて、どの書類が華之介の置いたものか、分からなくなりそうになる。
「この汚い机に飲まれないうちに、それを読んでおくといい。冨永氏の情報だよ。やっぱり彼は、お前さんの言う、『コーリャ』じゃないよ。KGBってところは当たっているがな。――ま、怪しい罠師のことは、ひとまず忘れて、仲良く富永氏と組もうや」
 呉林は書類を取り上げ、まず名前の欄を見た。
 ロシア名は、セルゲイ・イヴァーナヴィチ・ソローキン。
 コーリャ――ニコライではない。父称も名字も違う。
 だが名前ぐらいは、いくらでも偽れる。
「……冨永亮司以外の人間と組みたい、というのは無理かな。俺と彼は過去に確執があるから、組まないほうが仕事がしやすいと城之内に言っても、駄目だろうか」
「いまさら何を言ってるんだよ。ブンちゃんが組むことを了承したからと言いくるめて、城之内の彪ちゃんから冨永氏の情報をむしり取ってきたのに」
「おい、勝手なことをするなよ」
 目を剥く呉林に、華之介はおどけたように小さく両手を上げる。
「怒らない、怒らない。今度のミッション、俺もメンバーなんだ。ブンちゃんがいないと、つまんないんだよね。――いいじゃん、ミッションの最中に、冨永氏が本当はコーリャなのかどうか、見極めたら」
 確かに華之介の言うことも、一理ある。
「せっかく彪ちゃんを口説いて冨永氏の情報を取ってきたんだから、有効に活用してくれや。けっこう苦労したんだぜ。彪ちゃんってば『本来ならばエージェントの情報を漏らすことないのだが』って、キツネみたいに目を吊り上げて言ってくれちゃってさあ……」
「誰も情報を取ってきてくれと、頼んだ覚えはないぞ」
「取らなかったら、ブンちゃんのことだから眠れなくなっていたと思うんだけどな。さあ、親切な俺に『ありがとう』って言ってごらんよ。さあ、さあ」
「……感謝してやってもいい」
「やれやれ。素直じゃないね、ブンちゃんは」
 がんばれよ、と手をひらひらさせて、華之介は自分のデスクに戻った。
 呉林は亮司の情報を、詳しく読んだ。
 冨永亮司――ロシア名は、セルゲイ・イヴァーナヴィチ・ソローキン。モスクワ生まれ。
 日露ハーフで、父親はソ連共産党の大物である。母親は日本人で、父親と正式結婚はしていない。
 ソ連共産党に入党後、KGBに入り、第二管理本部の第一局で活動していた。
 第二管理本部とは、対内保安活動に従事していたセクションだ。その中の第一局は、各国駐在のアメリカ大使館に対する浸透工作、及び電子監視を任務としている。
 その後ソ連が崩壊し、日本に亡命してきたと書かれている。チャリナンという文字は、どこにもない。
 呉林は眉をひそめた。
 コーリャが所属していたのは、対外情報活動に従事する第一管理本部の、第十三局。通称『V局』と呼ばれていたところだ。
 秘密機関(タイヌイ・アツジェル)とも呼ばれ、主に暗殺活動に従事する。コーリャはその中でも、凄腕中の凄腕だ。
 中でもトラップに関する才能は天才的で、当時の西側諜報界は、何度も苦汁を飲まされたものだ。
 書類に書かれている情報と、コーリャ本人の情報とが、ずいぶん食い違っている。
 ――個人情報を提出する段階で、虚偽を申告することも可能だが……。
 呉林は書類から目を離し、亮司をもう一度盗み見る。
 亮司は、大あくびをしたあと、机に顔を伏せた。どうやら昼寝をしているらしい。
 しぐさすべてに鋭さがない。はっきり言って、隙だらけだ。
 ――彼はやはり、コーリャとは別人なのだろうか。
 それともコーリャが、何か別の目的があって、城之内ゼミナールに潜入しているのか。
 潜入だとすると、素顔に近いロシア人のカヴァーで来なくても良さそうなものだ。母親の血を強く受け継いでいるようなので、日本人だと言い張ることだってできるだろう。
 呉林は亮司の情報を書かれた紙を丸め、灰皿の中で火をつけた。
 ――華之介のお節介に感謝するべきかもしれない。
 呉林は炎を見つめながら、目を細めた。
 いまは亮司がコーリャであるか否かは分からない。
 しかしこの任務の間に、必ず正体を暴いてみせる。
 五年前の決着を完全につけるためにも、やらなければならなかった。

        2

 ――ああ、またこの場面か。
 呉林は夢と知りながら、苦い思いで吐息を漏らした。
 一人の男が歩いている。
 白いセダンの前に立ち止まり、ドアに手を掛けた。
 開けてはならない。
 だが彼は無造作に開ける。
 中には紙切れがあった。
『オメデトウ。キミハ運ガイイ』
 次の瞬間、車とは全然関係ない場所が吹き飛ぶ。
 CIAに協力していた者が、住んでいたところだ。
 紙切れを見て誰かが車の中に入ったことを知り、男は車をチェックする。
 キーを差し込んで回した瞬間に、爆発する仕掛けを見つけ、爆弾処理班を呼ぶ。
 無線機を使った瞬間に、今度はCIAが極秘で借りていたマンションが爆発する。
 もちろん男は、まだそのことに気づかない。
 気づくのは、数分後。
 同僚から無線で、爆弾テロが行われたことを教えられる。
 そして起爆を促す信号が出たのが、ちょうど男の居た場所であることも。
 そのとき、無線に聞き覚えのない男の声が聞こえる。
『初めまして』
 無線に割り込んできた男は、コーリャと名乗った。
 もちろん男は、コーリャの名前を知っていた。
「一連のテロ事件は、お前の仕業か?」
 男の問いに、コーリャは芝居がかった調子で、ため息をつく。
『僕じゃないさ。すべてきみがやったじゃないか』
「ふざけるな!」
『ふざけてなんか、ないさ。――いいかい、きみが動くたびに、どこかが爆発する。これは忠告だ』
 コーリャの言葉をよく聞こうと、男は無線機に手をやった。
 次の瞬間、爆発音が聞こえる。中央広場のどこかが爆破されたのだ。
 コーリャは楽しげに笑う。
『ほら、言ったとおりだろう? うかつに無線機なんかに触るからだ』
 男は、ゆっくりと無線機から手を放した。
「――何が目的だ」
『分かっているはずだ。僕らにとって、きみは――きみたちすべてが邪魔なんだ。消えてくれ』
 激昂して、何か叫びそうになった。
 だがそれより早く、コーリャの不遜な声が響く。
『うかつに動かないほうがいいよ。僕はあらゆるところに仕掛けをした。きみは何がスイッチになっているか知らないんだから、妙な真似はしないほうがいい』
 コーリャは歌うように続ける。
『たとえばきみの同僚が、石畳を走って、きみの車に近づく。その石畳の一つが、起爆スイッチかもしれない。同僚が呼ぶ、きみの名前がスイッチかもしれない。大丈夫かと訊く、その言葉がスイッチかもしれない』
「……本当はどこかでこちらを見ていて、俺の動きに合わせて、起爆スイッチを押しているんじゃないのか?」
『だとしても、いつ爆発するか分からないという現状には、変わりないだろう? 同じことだよ』
 男は慎重に周囲を見渡した。コーリャらしい人影はない。
『どうだい、僕が見えたかい? ――見つからなかっただろうね。見つかるはずがない』
 男からコーリャは見えなくても、コーリャからは小さな動きまで、はっきり見えているらしい。
 口の中が乾き、男は唾を飲み込んだ。
「……いいかげんにしろ」
『「いいかげんにしろ」か。そう言うと思ったよ』
 次の瞬間、セダンが爆発した。男は吹き飛ばされて、石畳に叩きつけられる。
 いいかげんにしろ――この言葉も起爆スイッチだったことに気づくが、もう遅い。
 遠のく意識の中で、男は死神を思わせる声を聞いた。
『きみが生きているかぎり、誰かが死ぬ。もちろん、きみ自身も。――だからもう、息をするのもやめたほうがいいんじゃないかな? ミスター・スティーヴ・グラント。この世界のためにも、ね……』


 ガラス越しに人の気配がし、呉林は飛び起きた。
 無意識のうちに銃を取り出し、相手に銃口を向ける。
「うわ、何もしないから、そんな物騒なものをしまってくれよ。だいたい、人に見られたらどうするんだい」
 コーリャ――いや、コーリャと同じ顔をした冨永亮司が、車の助手席側の窓の外で両手を上げていた。
「いや、車の外に出るときに、うっかりしてロックしちゃってさあ、中から開けてもらおうと思って。そうしたらきみが目を閉じていたから、寝ているのかなあと思って、コンコンってやろうと思ったら、いきなり銃をつきつけるんだもんなあ。びっくりしたよ、本当に」
「つまり、ドアを開けろと言いたいんだな」
「そういうこと。きみの分の夕飯も買ってきたよ。一緒に食べよう」
 亮司は、邪気のない顔で笑った。
 呉林は警戒しながらも銃をしまい、ドアを開ける。
 亮司はコンビニの袋を抱えて、運転席側に入ってきた。
「ついでに周囲も見てきたんだけれど、特に異常はなかった。そっちは?」
「――異常なしだ」
 呉林は時計を見た。
 亮司が外に出てから戻ってくるまで、一時間ほどかかっている。呉林が夢を見ていたのは、そのうちの五分程度だったらしい。
 呉林はターゲットの泊まっているホテルに、目をやった。
 人間が一人出ていったところで、ホテルの外観からは何も分からない。
 しかしホテルの従業員に化けている、華之介から何も連絡がないので、ターゲットはまだ中にいるのだろう。
 呉林は正直言って、ターゲットの安否よりも、亮司の動向のほうが気になっていた。
 亮司と一緒だと気の休まる瞬間がない。彼が横に座るだけで、いつもコーリャを思い出して落ち着かないのだ。
 ゆえに彼が外出したとき気が緩んで、うたた寝をしてしまったのだろう。
 CIA時代では、考えられないようなミスだ。
 だが亮司は、呉林のうたた寝を意に介さず、マイペースで喋る。
「だいたい三人で護衛するっていうのが、無茶な話なんだよね。しかも護衛されている当人には内緒なんだろ? 上はターゲットが死んでもいいと思っているのかな」
「思っているかもな。……しかし任務は遂行しなければならない。俺たちはターゲットが殺されるのを、指くわえて見ているわけにはいかないんだ」
「そりゃそうなんだけどさあ」
 亮司は不満そうに、買ってきた弁当を取り出す。
「三日もコンビニのご飯だと、嫌になるねえ。しかもホテル周囲には店がないし。だいぶ歩いて、ようやくローソンが一軒あるだけだもんね。……ああ、たまには別のものが食べたいなあ。贅沢は言わないから、サンクスとかセブンイレブンとかの弁当も、食べられたらいいのに」
「庶民的だな。コンビニの飯でいいのか? ロシア時代は、いいところのボンボンだったと聞いたが」
 呉林は、書類に書かれていた過去の話を、持ち出してみた。
「親は金持ちだったけれど、僕は違うよ。日本人とのハーフだったから、肩身が狭かった。正妻の子供ほど出世しなかったしね」
 答えたあと、亮司は首をかしげる。
「きみは、よく僕のことを知っているねえ。やっぱりどこかで会ったことがあるのかなあ。ええときみの名前は『置物』じゃなくて、『文房具』じゃなくて……確か習字に関係ある名前で、『半紙』とか『墨汁』とか……」
「文鎮だ。呉林文鎮」
 呉林は不本意な気持ちで答えた。
 亮司は、ぽんと手を打って微笑む。
「ああ、そうだそうだ。文鎮さんだ」
「できれば名字のほうで呼んでほしいのだが」
「文鎮のほうが、覚えやすくていい名前だと思うけどなあ。ええと、名字はトンダバヤシだったっけ」
「……もういい」
 呉林はダッシュボードから無造作に煙草を取り出し、一本くわえて火をつけた。
 しばらく禁煙するつもりだったが、いまだけは吸わずにいられない。
 吸いながら呉林は華之介の、にやにや笑いを思い出す。
 三人でミーティングをしたときのことだ。
 亮司は遅刻してきたうえに、平らな床を滑りこけ、何もしていないのに椅子から落ちた。
 ――なあ、ブンちゃんよう。いくら顔が似ていても、ありゃ別人だぜ。
 ミーティングのあと、華之介は笑いをかみ殺しながら言った。
 ――人間ってのは、所属してきた世界の臭いが染みつくものなんだ。たとえば情報局の人間なら、情報局の臭いがする。軍人なら、軍人の臭い。人殺しからは血の臭いがする。……だが冨永氏からは、甘やかされたボンボンの臭いしかしない。誰かに守られ、大事にされてきた人間であって、諜報の世界に身を置いて、悪辣な方法で何人も人間を殺してきたように思えないんだ。書類にあったKGB出身っていうのでさえ、俺は信じられないぐらいだぜ――。
 三日間、亮司と一緒に居た結果、さすがの呉林も華之介の言うことが正しいと、認めずにはいられなかった。
 亮司は実に無防備で、あけすけである。
 ターゲットを監視している時間、退屈なせいか、くだらない話題をずいぶん振ってきた。
 おかげで呉林は、亮司がオリンピック放送のサッカーとアメリカのバスケットの全試合を見て、女子マラソンに感動し、前の仕事が長引いたせいで、シンクロナイトスイミングの決勝を見損ねて悔しい――ということが分かった。
「いま僕が恐れているのは、サッカーのアジアカップなんだ」
 亮司はサンドイッチをかじりながら、大まじめに言った。
「今日から始まってしまうだろう? 気になってねえ。でもこんなところで張り込みなんかしていたら、見ることができない」
「試合結果なんて、新聞を見れば載っているだろう?」
「リアルタイムで観なければ、意味ないよ。せっかくテレビ中継するっていうのに、あんまりだ。……今日といっても、日本時間だと夜中にキックオフなんだよ。それまでに、仕事が終わらないかなあ」
「この仕事をやっていて、高い給料を取っているんだから、諦めろ」
 投げやりな呉林に、亮司はなおも真剣に訴える。
「あと、映画も見たいなあ。いまやっている『ホワイトアウト』。あれ、面白いのかなあ。凄くヒットしているじゃないか」
「原作が出ているんだから、本を読めよ」
「どうせだったら、映画のほうを先に観たいよ。だってさあ、原作が面白くて映画がカスって作品はいっぱいあるけれど、映画が面白くて原作がカスっていうのは、あんまりないじゃないか。……ホワイトアウトって、八月からやっているんだよねえ。もうじき終わるかな、終わるかな。終わったら、どうしよう」
「ビデオででも、観ればいいだろう」
「どうせなら、大画面で観たいなあ」
「ワガママばっかり言うな。少しは黙っていろ。弁当は静かに食え。あちこち食いカスを撒き散らすな。ソ連の学校では、テーブルマナーを学ばなかったのか!?」
 亮司は憮然とする。
「それを言うなら、食事中に煙草を吸うのも、やめたほうがいいと思うよ。確か文鎮さんはアメリカ人だよねえ。公共の場所で煙草を吸うなって、厳しく言われなかった?」
 呉林は煙草を乱暴にもみ消し、亮司に人差し指をつきつける。
「――そっちも黙って食え」
 亮司は小さく肩を竦めたあと、黙々と食べ始めた。
 呉林は自分が情けなくなった。
 何故、このとぼけたお喋り男を、コーリャだと思ったのだろうか。
 顔が似ているからだが、いまとなってはその記憶も怪しくなってきた。
 実物のコーリャを目の当たりにしたのは、たった一度。コーリャが死ぬ直前だった。
 CIAの監視カメラから起こした写真と、同じ顔をしていたコーリャを認めた瞬間、チャリナンに潜入していた米軍の特殊部隊が射殺した。
 全身に銃弾を浴びたコーリャは、そのまま海に落下した。
 のちに引き上げられた死体を見た者の話によると、まともな人間の原型をとどめていなかったという。
「顔はどうだった? 間違いなく、コーリャの顔をしていたのか?」
 詰め寄る呉林――スティーヴに、検死官は言った。
「顔も蜂の巣さ。でも間違いなく、コーリャは死んだんだ。射殺された瞬間を、あんたも見ただろう?」
 一度はその言葉で納得し、五年間、そう思い続けた。
 思いたかった……。
 呉林は、少し倒していた助手席のシートに、身体を預けた。
 そして心の中の煩悶を吐き出すかのように、大きくため息をつく。
 ――あのとき死んだのだ、コーリャは。
 そして。
 運転席に座っている男は、冨永亮司だ。コーリャじゃない……。
『おい、文鎮。聞こえるか』
 無線が入り、華之介の声が聞こえてくる。
『ターゲットが車でホテルから出ていった。追跡してくれ』
 華之介は続けて、ナンバープレートの番号を言う。
 呉林は番号を記憶しながら、座席シートを元に戻した。その間に、亮司がエンジンを掛ける。
 ほどなく、華之介の言っていた番号の車が、ホテルから出てきた。
 ぴかぴかの黒のクラウンで、後部座席には真っ黒な遮光シールドが貼られている。
 どこのコネを使って手に入れたのか知らないが、いかにも要人が乗ってそうな車だ。
 車はしばらく一般道を走り、二十分後に高速道路に上がった。呉林たちも続いて上がる。
 亮司は一定の距離を保って、車を走らせた。
 数日間見ていたが、亮司は尾行の腕も悪くない。夕方の渋滞に巻き込まれたにもかかわらず、車二台の間を開けて、ぴったりとマークしている。
「もうじき暗くなるのに、どこに行く気かなあ」
「さあな」
「気にならないのかい? あいつは悪いことをしに行くのかもしれないよ」
「かもな」
 呉林は冷たく言う。
「だが俺たちの仕事は詮索することじゃない。護衛することだ」
「へえ、全然興味がないんだ」
「興味があるのは、奴の生死だけだ。奴が何をしていようが、これからしようが、知ったことじゃない。いいから黙って運転しろ」
 車は次のインターチェンジで下りるようだった。
 どうやら海のほうに向かうつもりらしい。
 ――海のほうに誰かいるのだろうか。
 それとも小さな港から、こっそり日本を脱出するつもりなのだろうか。
 日本から出国しそうなときは、どうするのだったか聞いてなかったなと、呉林は皮肉っぽく顔を歪める。
 もともと穴だらけの任務だった。特殊公安庁としても死なれては面倒だから護衛をつけよう、ぐらいにしか思っていないに違いない。本気だったら、嘱託などに頼まず、もっと勤勉な警察を使うはずだ。
 やっかいごとに巻き込まれて死人が出るとしても、嘱託の人間ならどうということはないとでも思っているのだろう。
 はっきり言って、真面目にする価値のない仕事だ。
 だが――。
 自分たちの車がターゲットから離れてゆくのに気づき、呉林は考え事を中断する。
 何故離れてゆくか、すぐに分かった。
 ターゲットは高速道路を下り、この車はまっすぐ高速道路を走ろうとしているからだ。
 呉林は顔色を変える。
「お、おい。何をしているんだ! 早く高速を下りろ!!」
 だが亮司は、無情にもインターチェンジを通り過ぎてゆく。
「何をやっているんだ、お前は! どうやって引き返すつもりだ、高速道路で!!」
 亮司は困惑したように眉を寄せる。
「下りようとしたんだけれど、邪魔が入ったんだよ。横の車が車線変更させてくれなくて」
 チャリナンから来た殺し屋が、邪魔をしに来たのかと思い、呉林は周囲の車を観察した。
 だが見えるのは、普通のビジネスマンや家族連ればかりである。どう見ても諜報機関とも殺し屋とも関係ない、一般車両だ。
 渋滞しているので、確かにこちらが割り込めるだけの隙間はない。しかし割り込んだからといって、撃ち殺してくるような相手でもなかった。
「アホかっ。そういうときは強引に突っこむんだよ! KGBで習わなかったのか!?」
「僕のいた課では、そういう技術は必要じゃなかった」
「嘱託の一員なら、そのぐらい自力で覚えろ!」
「分かった、今度から気をつける」
「今度からじゃ、遅い。反省しているんだったら、とにかくいますぐ追いかけろ。夜になったら、探したくても探せないんだぞ」
「でも、高速道路では引き返せないよ。次のインターで下りても、見失っちゃったから、再び出会える確率は低いんじゃないかなあ」
 亮司は腹が立つほど冷静だった。
 だがここで納得するわけにはいかない。
「ガタガタ言わないで、お前は下りることだけを考えろ!」
 呉林は無線機を掴んだ。
「轟、聞こえるか。ドジった」
 数秒おいて、華之介の呆れたような声が聞こえてくる。
『なーにやってんの、ブンちゃん。間抜けな真似を、さらしてんじゃないよ』
「すまん。――お前は奴らがこれからどこへ行こうとしていたか、知らないか?」
『知らないね』
 華之介は、あっさり言ったあと、意地悪く付け加える。
『――と言いたいところだが、分からないでもない』
「本当か? どこだ」
『奴のポケットに、発信器を入れておいた。追跡機はこっちが持っているから、位置をそっちのカーナビに転送してやるよ』
 呉林がカーナビのスイッチを入れると、地図が表示され、赤い点滅が見えた。こちらの現在地だ。
 スイッチを切り替えると、離れた場所に青い点が映る。これがターゲットの位置だろう。海沿いの道を走っていることが分かる。
『嘱託って、アホなもの作る奴がいるけれど、けっこう役に立つもんだな。――見えるか、文鎮』
「ああ。悪いな」
 言ったあと、呉林は亮司を小突く。
「さっさと高速を下りて、あの点を追いかけろ。言っておくが、今回はお前のミスだからな。責任を取ってもらう!」
「分かっているよ」
 亮司は不満そうに言いながら、アクセルを踏んだ。

       3

 途中から青い点が止まったので、追跡は楽になった。ターゲットが目的地に着いたのだろう。
 点が止まってから、呉林たちは結局十五分で追いつくことができた。
 車は小さな港に近い、貨物倉庫の横に置いてあった。
 周囲はすでに暗い。星はいくつか瞬いており、月は見えない。ネオンの明かりは対岸の海岸線沿いに見えるが、こちら側は暗くて、わずかにある街灯の明かりが道を照らしている。
 華之介が機転をきかさなければ、追跡できなかったに違いない。
 呉林は車を降りた。
 次の瞬間、血の臭いを嗅ぎ取る。
 かすかだが、間違いない。かつて身を置いていた世界がもたらす臭いだ。
 呉林は周囲の音に神経を集中させる。
「気をつけろ、冨永。敵がいる」
「敵?」
 亮司は呑気に周囲を見渡した。
 元KGBとは思えない呑気なしぐさに、呉林は舌打ちした。
「おそらく、これらの倉庫のどこかに、ターゲットがいるはずだ。探すぞ」
 呉林は銃を抜いた。
「一つ一つ、わざわざ探すのかい? 名前を呼びながら探すっていうのは、駄目かなあ」
「敵も同時に呼び寄せることになるぞ。お前はここで狙撃されて、一生を終えたいのか?」
「一生を終えたくないけれど、面倒臭いなあ」
「お前が追跡を失敗して、こういう面倒な事態になったんだぞ。忘れるなよ」
「そりゃあ、そうなんだけどねえ」
 亮司はつまらなそうに言ったとき。
 ――銃声が聞こえた。
 いま立っている場所から、そう遠くない倉庫の中からだ。
 呉林は音のほうに走った。亮司もあとに続く。
 近づくにつれ、血の臭いも強くなってきた。
 一番海に近い倉庫の鍵が壊されていることに気づき、呉林は倉庫の前に立った。
 スライド式の扉をずらし、中の様子を伺おうとする。
 だが亮司は、呉林に追いついたとたん、無造作に扉を開いた。
「ごめんくださーい」
 堂々と中に入ってゆき、さすがの呉林も慌てた。
「おい、何をやって……」
「すみませーん、どなたかいらっしゃいませんかー? 僕、今晩アジアカップが観たいから、早く帰りたいんですけど。手間を取らせないでくれませんか?」
 日本語、英語、ロシア語、チャリナン語で同じことを繰り返しながら、倉庫の中まで堂々と入ってゆく。
 呉林は頭を抱えた。任務失敗という言葉が、頭の中をちらつく。
 だが亮司を放っておくわけにはいかない。銃を握ったまま、続いて真っ暗な倉庫の中に入った。
 数歩歩いて、呉林は足を止める。
 目の前に死体が転がっていた。
 ターゲットである、元KGB大佐ではない。チャリナン人だ。
 死体は一つではなかった。積み重ねられている麻袋の間から、二つほど見える。
 全員チャリナン人だ。おそらく元大佐を狙ってやってきた、殺し屋たちだろう。
 倉庫の明かりをつけて徹底的に捜索すれば、さらに死体が見つかったかもしれない。
 全員、元大佐が殺したのだろうか。
 ありえない話ではない。彼は銃を使ってもかなりの腕前のはずだ。
 床に付着した黒い血痕を追ってゆくと、亮司の背中が見えた。
 足下には、怪我人が倒れている。
 身体を丸めており、床に血溜まりができていた。かなりの大怪我なのだろう。目を閉じて、ぴくりとも動かない。
 亮司は銃を抜いて、こともあろうかその怪我人に狙いをつけた。
「よせ……!」
 呉林は亮司を突き飛ばした。
 亮司は少しバランスを崩したが、それでも引き金を引く。
 銃弾はわずかに逸れ、倉庫の床を削った。
 呉林は亮司の胸ぐらを掴み、腹立ちのあまり英語で怒鳴る。
「どこに目をつけているんだ。これはターゲットだろうが!」
「知っているよ。だから殺そうとしたんじゃないか」
 亮司は冷静に英語で返し、薄く微笑んだ。
「チャリナンの殺し屋も、不甲斐ないな。五人がかりで、人一人殺せないなんて。――せっかくわざわざ遅れてきたのに、無駄になったじゃないか」
 呉林は、ぞくりとした。
 暗い瞳。冷たい声。
 ふざけたことを言っていた、これまでの亮司とは、まるで別人だ。目の奥を見ていると、闇の深淵を覗き込んでいるような気さえしてくる。
 邪悪な何かを掴んでいるような気がして、呉林が手を緩めると、亮司がその手を払いのけた。
「きみは邪魔するのが上手だったね、文鎮さん。正直言って、少し鬱陶しかった。もう少し能なしだったら、僕もやりやすかったのに」
 こいつは誰だ?
 呉林の頭の中に、一つの答えが浮かぶ。
 ――ありえない。
 彼は死んだはずなのだ。
 死ぬところを、確かに見たのだ。
 だが亮司は彼と同じ声で、そして同じ調子で言う。
「ものは相談なんだけど、僕にこの転がっている奴を殺させてくれないかな?」
 亮司が蹴ると、男は呻き声をあげた。意識を取り戻したらしい。
 男は呉林たちを見た。とたんに顔が恐怖に歪む。
「お前は……コーリャ……!」
 亮司は男に、ゆっくりと目を移した。
 そして銃口を心臓に向ける。
「コーリャは死んだよ。あんたが――あんたたちが殺したんじゃないか」
 聞いているほうの喉がカラカラになるほどの、乾いた声だった。
 亮司の顔に、すでに笑みはない。寒くなるような無表情で、男を見据えている。
「あのときあんたは、コーリャを――兄を裏切った。その報いは受けてもらう」
「待て……待ってくれ……!」
 男は必死で哀願する。
「確かに我々は、コーリャをCIAに売った。しかしお前の存在は隠していたじゃないか。コーリャは二人いると我々が言わなかったから、双子の弟であるお前は助かったんだぞ!」
「恩着せがましいことを言ってくれるね。罠を演出するほうを殺しても、罠を作るほうがいるからいいと思って、兄のほうをCIAに売ったんだろう?」
「しかし我々は、逃げたお前を追わなかった」
「追わなかったんじゃない。僕を捕まえられなかっただけだ。僕は国境を脱出するまで、ずいぶん非常識な追っ手に会ったんだよ。知らないとは言わせない」
「…………」
「残念だったな。従順だと思っていた僕まで消え、そしていま、あんたの命を奪おうとしているんだから」
 呉林は、ようやく事情が飲み込めてきた。
 五年前、数ヶ月に渡る戦いのあと、CIAはチャリナンの内戦から手を引くことを決定した。
 撤退の条件が、コーリャの抹殺である。
 彼一人がいなくなったところで、戦略的には何ら変わらない。だがCIAにも面子があった。
 それに他の地域での紛争で、これ以上コーリャと戦うことになるのは避けたい。
 チャリナン側も、これ以上アメリカ側と戦い続けたくなかった。
 両者の利害が一致して、コーリャを殺すことに決まったのだ。
 しかし本当の『コーリャ』は、双子の兄弟だった。
 罠を作って仕掛ける弟と、その罠を効果的に使う兄の二人で、『コーリャ』という一人の人間を作り上げていたのだ。
 弟――亮司が言う。
「僕ら兄弟はずっと、国家と党のために働いてきた。だから、僕らを裏切った国家と党が許せない」
「では、いままで同志を殺してきたのは……お前だったのか!? チャリナンの奴らではなく……」
「あんたを殺したら、残りはあと三人だ。ここまでくるのに、五年かかったよ」
 亮司は引き金に掛けた指に、力を込める。
「勘違いさせて、チャリナン側を裏切るよう細工までしたのに、結局僕が手を下すことになりそうだね。あんたには最後まで手間を掛けさせられたよ、大佐。――さようなら。ご苦労さま」
 カチリという音が、倉庫に響いた。
 亮司は横目で呉林を見る。
「……どういうつもりだ?」
「仕事をしている」
 亮司が引き金を引くより早く、呉林は亮司の頭に狙いをつけていた。
「忘れたのか? 俺はターゲットの護衛をしている。彼を殺そうとする奴は、殺す。たとえ誰であっても」
 亮司は、つまらなそうに鼻を鳴らす。
「こいつの命を助ける価値なんて、どこにもないぞ。保身のためなら味方を売る奴だ」
「命の価値をどうこう言っているんじゃない。仕事だからやっているだけだ」
「仕事だったら、クズでも助けるのか」
「ガードする奴がクズだからといって、俺まで仕事のできないクズになり下がる必要はない。――俺はこの仕事を受けた。受けたから最後まで任務を遂行する」
 亮司は声をあげて笑った。
 ヒステリックな笑い声のあと、低く呟く。
「もう一度言う。僕にこいつを殺させてくれないか?」
「断る」
「そうか。――残念だよ」
 亮司の左手が、わずかに動く。
 次の瞬間、爆音が響いた。
 壁が吹き飛び、天井が落ちてくる。
 ターゲットは呻きながら、埃に咽せた。
 亮司はターゲットに向かって、引き金を引く。
 銃弾は、間違いなく当たるはずだった。
 だが気づいたら、亮司は銃を弾き飛ばされていた。
 ――呉林の撃ち込んだ銃弾で。
「どうして……」
 亮司は呻くように呟いた。
 ターゲットは目を閉じて倒れている。
 だが死んではいない。胸がゆっくりと上下しているので、気絶しているだけだろう。
 ――完全な計画のはずだった。
 天井を落として呉林の視界を塞ぎ、その混乱に乗じてターゲットを殺す。
 だが呉林は、亮司とターゲットの間に入り、ターゲットをガードした。
 銃弾は呉林の右腕を掠り、次の瞬間呉林は亮司の銃を左手で撃った。
 亮司の動きを読んでいなければ、できる技ではない。そもそも亮司がターゲットを銃でとどめを刺すと確信していなければ、そんな行動を取らなかったはずだ。
「残念だったな。罠としては悪くなかったが、お前では無理だ」
 呉林は亮司の額に銃口を押しつけた。
「何故コーリャが二人なのか、考えた。かつて俺を狙った罠には、信じられないような仕掛けが施されていた。あれを作れる人間が、どうして兄の影とならなければいけなかったのだろうと考えて、そして分かった」
「…………」
「お前は自分の作った罠が完璧であるという、自信がないんだ。だからお前の罠を生かすためには、お前ではない者が使う必要がある。だから『コーリャ』は二人必要なんだ」
 亮司が初めて、動揺を顔に出した。
「お前の兄貴はお前の作ったものを、完全に信頼していた。だからお前の罠を使って、あれほど大胆で恐ろしい作戦を立てられたのだろう。……だがお前は違う。お前は罠の天才だ。爆発させて瓦礫の落ちる量や方向まで調節できるような奴だ。だからこそ、自分の作ったものが完璧でないことに気づいている。常人には気づかない、ほんのわずかな粗が見えるんだ。――ゆえに爆発はあくまでも目くらましとして使い、自分の手で銃弾を撃ち込んで、とどめを刺そうと思った」
「甘くみていたよ、きみを。……だから僕はしょせん、兄の影にしかなれなかったのか」
 亮司は瓦礫の中で、膝をついた。
「……あと四人だったのに」
 拳を握って、地面を叩く。
「四人殺せば、復讐が終わるのに……!」
「復讐が悪いとは言っていない。今回の件が俺の仕事でなけりゃ、楽しく見守ってやったさ」
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。
 爆音を聞いた誰かが、警察に通報したのだろう。
 事件はすぐに警察の管轄を離れ、特殊公安庁の担当するところになるはずだ。
「特殊公安庁も、さぞ喜んでいるだろうな。元KGBのおっさんを、保護という名の下に捕まえることができるんだから」
 亮司は何も言わなかった。唇を噛みしめ、ただ地面を見つめている。
「あとのことを邪魔されては困るから、お前はしばらく眠っていてもらう」
 亮司は怪訝そうな顔で、呉林を見上げる。
「眠らせるって……まさか僕を生かしておくつもりなのか?」
「暗殺しようとした奴を殺せという依頼も、受けていないからな」
 呉林は、あっさり言った。
 信じられないと言いたげな顔で、亮司は首を横に振った。
「呆れるほど職務熱心な男だ。仕事じゃなかったら、敵も殺さないのか」
「いまはまだ同僚だ。それにお前を殺すと、城之内に給料を減らされそうだ」
 呉林は冗談めかして言った。
 唖然としていた亮司だったが、やがて皮肉な笑みを浮かべる。
「あんたを思い出したよ、スティーヴ・グラント。あのときチャリナンにいた、CIAの人間だな」
 呉林は、わざとらしく大きなため息をつく。
「やっと思い出したか。記憶力が悪いな。諜報部員失格だぞ」
「この五年間探していたのはロシア人だけで、他の奴など眼中になかった。――だいたい僕はKGBの第二管理本部にいても、ずっと罠ばかり作らされていたからな。あんたの写真も一度見たきりで、本物なんて見たことなかった」
「こっちは五年間ずっと、お前たちの夢ばかり見続けていたのに、薄情なことだ」
「しかし兄は、あんたを知っていたよ。スティーヴ・グラントは、CIAで一番目障りな奴だって言っていた。任務に忠実すぎて、買収もできないってね。――確かに想像以上の堅物だ」
 亮司は冷たい笑い声を漏らす。
「決めたよ、スティーヴ・グラント。あんたは五番目だ」
「五番目? 何の」
「裏切り者のロシア人を全員殺したら、次はお前を殺す。そのときになって、いま僕を殺さなかったことを後悔するといい」
 暗い輝きを秘めた、どこか狂った瞳だった。
 幾人もの命を握り、自在に操ってきた彼――コーリャの目だ。
 幾度夢に見ただろう。その顔を。その目を。
 ――サイレンの音が近くなった。
 あと十分もすれば、こちらに到着するだろう。
 もう少し話していたかったが、ここにとどまっているわけにはいかない。
 呉林は左手を亮司の頭に回し、銃口を後頭部に向ける。
 そして耳元で囁いた。
「もう時間だ。おやすみ、ボーヤ」
 言い終わると同時に、亮司の後頭部を殴る。
 亮司は崩れ落ちるように、呉林の腕の中に倒れた。
『決めたよ、スティーヴ・グラント。あんたは五番目だ』
 亮司の言葉を反芻し、呉林は無意識のうちに微笑んだ。
 死んだはずの人間が、腕の中にいる。
 もうこの世のどこにも存在しないと思いながら、しかし頭のどこかでは生きていると信じていた。
 五年間、ずっと憎み続けていたその彼が、いまここにいる。
 これは悪夢の続きなのか。
 それとも心の奥底に秘めていた願望が叶ったのか……。
 亮司を抱きかかえて車のドアを開けると、車内にある無線が鳴った。
『おい、文鎮。ターゲットと接触したか? それともまだ車の外か?』
 華之介である。どうやら何度か無線で語りかけていたらしい。
 呉林は苦笑いしながら、無線を取り上げる。
「ああ。お前のおかげですべて解決した。倉庫が爆発して死人も出たから、特殊公安庁の奴らも動かざるをえないだろう。チャリナンからの暗殺部隊も壊滅したし、一件落着だ」
『そうか。とりあえず良かった、と言うべきかな』
 華之介は無線の向こう側で、安堵の吐息を漏らす。
『実はな、どうやらチャリナンの暗殺者たちとターゲットを、そっちの倉庫で鉢合わせさせようと画策した奴がいるみたいなんだ。お前らが巻き添えを食らってなければと、思っていたところだ。なんたって、チャリナン側とロシア側を手玉に取った、黒幕だからな。そんな奴までそっちに行っていたら、危険度が倍増だ』
「黒幕、ねえ……」
 呉林は無線に入らないように、乾いた笑い声を漏らした。
「報告書は明日書く。今日は戻るから、あとは頼む。けっこう派手にやったから、うまいことごまかしておいてくれ」
『おい、こら。文鎮!』
 呉林は無線を切った。
 助手席に亮司を放り込み、車のエンジンを掛ける。
 亮司は意識を失ったままだった。
 目を閉じている顔は、数日間ミッションを共にした、嘱託での相方である冨永亮司の顔だ。
 しかしこれは冨永亮司ではない。少なくとも、自分にとっては。
「いつか殺してやる、か」
 呉林は存在を確認するように、亮司の頬にそっと手を触れた。
「その日が来るのを、いまから楽しみにしている。だから約束を忘れるなよ」
 呉林が亮司の耳元で、睦言のように甘く囁く。
 そして前に向き直るとギアを入れ替え、夜へとアクセルを踏んだ。



     終わり



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